- 独り言
AIは電気羊も夢も知らない
先日、NHKのニュースで、自身の絵をAIに学習されて盗作に近い絵を描かれ、著作権の侵害だと訴えているニュースがありました。
ここ最近、チャットGPTなどの起爆剤もあり、にわかにAIという言葉が流行っているように思います。
個人的には、あんなものを「人工知能」などと呼びたくないのですが、分かりやすさのために、AIと呼ぶことにします。
AIというのは、『大量の記録から指示に適合する記録を検索して、決められたロジック(決定方法)で回答する』というプログラムです。
ここで、大量の記録を登録する作業が、いわゆる「学習(機械学習)」と呼ばれているものです。
冒頭の絵の例でいえば、大量の絵(イラスト)を、「学習」によってAIに記録させていきます。
この時、学習の方法によっては、回答するロジックに必要なデータなども併せて「学習」させられます。
細かいことは、まだちょっと私の学習が足りないのでぼかしておきますが、AIというプログラムには、このような「学習」が不可欠だということです。
一方、今もちょっと触れましたが、私たち人間にも「学習」は不可欠です。
例えば、プログラムの勉強をしている知人からすると、私は何でも知っているように見えるそうですが、当然そんなことはありません。
私が知っているのは、私が「学習」したことだけです。
ただ、私の場合、『試験や仕事に直接影響しないようなデータ』も併せて学習しています。
一見非効率なように見えるかもしれませんが、私という「ソリューション(解決手段)」の目的は、試験に受かることでも今の仕事を成功させることでもありません。
周りのデジタル技術で困っている人に手を差し伸べ、解決へと導くことが、私というソリューションの目的です。
そのためには、デジタル技術から大きく離れた「たとえ話」を使って理解を促すこともありますし、あるいは真の話題のための前座として周辺知識から話題につなげることもあります。
私というソリューションはそのようなロジックでできています。
しかし、私というソリューションは、数日や数年で出来上がったものではありません。
親に育まれ、学校の教育を受け、世間の常識に揉まれ、資格の勉強を通じて、何十年かけて出来上がった、実に手間のかかったソリューションです。
AIからしてみれば、こんな非効率的な「学習」を行うソリューションは駄作です。
AIの作り手、人間で言えば親や教師、あるいは上司などが、しっかりと最適化された「学習」を行うべきです。
しかし、現代の世でそれをすると、間違いなく悲劇が起きます。
親の宗教を強制され、人生が狂ってしまった子どもがどれだけいるでしょうか。
成績の優劣で教師に見放され、学校に通うことをやめてしまった子どもがどれだけいるでしょうか。
AIは、確かに目的を達成するために最適な「学習」を受けています。
ですがそれは、言い換えれば、『教えられたことを忠実に実行する機械でしかない』ということです。
全知全能の神ではありません。
著作権法すら「学習」していない、無能です。
私は、周囲の人間に『AIは信じるな。何を教えられてるか分かったもんじゃない』と常に言っています。
これは、言葉通りの意味です。
先の例で言えば、「画像生成AI」というプログラムは、非常に魅力的な呼び名です。
『ついにAIで絵が描ける時代かー』などと言っている知人もいますが、とんでもない。
AIがやっていることは、『適合する作品からの盗作のつぎはぎ』です。
「画像生成AI」に、著作権法や倫理観などを「学習」させている人はほぼいないでしょう。
私たち人間が、親や教師、時には法によって教えられた『やってはいけないこと』を、AIは何一つ教えられていないのです。
私がAIのことを「人工知能」と呼びたくないのは、そういう理由もあるからです。
一方で、『そこまで言うなら、何が「創作」なのか』という意見もあるでしょう。
それはそれで難しい問題です。
私たち「人間」も、結局「学習」していないことは知らないわけですから、自分で創造したと思っているものも、何らかの学習データの影響を受けているわけです。
ましてや、絵画などでは、芸大生の方などが熱心に有名な絵の模写をされています。
それはもちろん、筆遣いや表現の方法などを学ぶための勉強だと思いますが、AIに置き換えれば、まさに「学習」と同じことでしょう。
仮に、この記事の公開時点での状況を元に「創作」を定義するとしたら、『法と常識の下、一般に許される範囲を見極めて、自己の学習データをもとに結果を生成すること』ではないかと思います。
音楽などが分かりやすいですが、有名なフレーズなどを拝借する「オマージュ」は、原作への敬意を表しつつ自身の作品との関係性を示唆して、人々に様々な想いを起こさせる手法です。
この「オマージュ」も盗作といえば盗作でしょう。
敬意を表してるとはいえ、他の人が作った作品の一部、それも人々がその作品だと分かるような部分を切り取って持ってきているわけです。
俗語的にいえば、『パクってる』のに変わりはありません。
しかし、そのような表現は、多くの場合、世間一般に許されます。
原作に敬意を表しつつ、自己の「表現」を行う――日本で許されている「表現の自由」の範疇でしょう。
また、商業的に言えば、その作品が売れれば、原作が気になってそちらもリバイバルヒットするかもしれません。
これはこれで、大人の事情的には、許したほうが得策という考え方もあります。
結局、このような『許される/許されない』といった部分も考えて、私たち人間は「創作」を行っているのではないでしょうか。
そしてそれが許されない範囲だった時に、著作権の侵害として訴えられるなど、制裁を受けるのではないでしょうか。
そしてその制裁が、人々に『許される範囲』を示し、それを聞いた人々が少しずつ『許される/許されない』といった分別を「学習」していくのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、AIは万能ではありません。
今までの歴史でもそうですが、AIやコンピュータなどの便利な技術は、最終的には、使う人間がちゃんと「判断」を行わなければなりません。
それができないなら、初めからAIなんて使わないことです。
何なら、チャットGPTさんに聞いてみるといいかもしれませんね。
『私はAIを使っても大丈夫ですか?』と。
それでは、いつの日か真の「人工知能」を見てみたい、山本慎一郎でした。