- 独り言
何のためのDXなのか
先日、開発中の案件のデモンストレーションを行いました。
そこで、久しぶりに元先輩とお会いしまして、その案件やDXについて少しお話をしていました。
その中で、元先輩は、ふとこんなことを仰りました。
『これ(DX)が進むと変わりそうだね。今の居心地がいいと思ってる会社ではなくなってしまいそう』
その時は、『そうかもしれませんね』と返しましたが、その言葉は私にとって非常に重要な命題を提示してくれました。
『DXは、社員の居心地をも、破壊的に変革してしまうのか?』
理論上は、DXが会社も人も守ろうとしているのは理解しています。
どれだけ居心地のいい会社でも、デジタル技術を活かせず競争優位性を失えば、仕事をもらえなくなります。
居心地のいい会社も倒産してしまっては元も子もないので、そうならないようにDXを推進するというのは理解しています。
ただ、『事業のトランスフォーメーション(変革)』は、本当に必須なのでしょうか?
経営層も売上に大きな不満がない、従業員も居心地が良いと感じている、それで既に数十年やってきた。
そのような会社に、突然デジタル技術を利用した「変革」を求めるのは、何か間違っているのではないか。
その「変革」は誰のためのものなのか。
一体、誰が必要としているのか。
次の10年のために本当に必要なのか。
私は少し、DXを妄信しすぎていたのかもしれません。
改めて、DXを進めることの意義を考えてみます。
DXのゴールは、『競争優位性を確保すること』です。
逆に言えば、『競争優位性が確保できているなら、必ずしもDXは必要でない』という考え方もできます。
例えば、システム開発(技術者の派遣含む)を行う企業であれば、技術者のスキルが高ければ、それだけでそれなりの「競争優位性」を確保できます。
もちろん、その技術者本人が労働環境の改善を求めているなら別ですが、その人たちも待遇に不満がなければ、問題点が存在しません。
無論、現時点で確保できている「競争優位性」が、5年後10年後にも確保できている保証はありません。
DXを進める理由のひとつは、そういった『将来にわたる「競争優位性」や持続可能な事業』を考慮したものです。
ただ、「競争優位性」を保証できないのは、DXを推進した場合でも同じです。
DXを進めたからといって、5年後にそれが「競争優位性」の確保に役立っているかは誰にも分かりません。
確率的に、有利に働いている可能性が高いというだけです。
そう考えると、DXは結局ひとつの手段に過ぎないと言えます。
まるで『DXこそ全て』のような動きになっていますが、確かにこれはおかしい気がします。
少々過激な言い方をすると、『国家レベルで低いデジタル技術の活用能力を、無理やり底上げさせようとする体のいい社会統制』のようにも感じられます。
もっとも、デジタル技術に関する能力を上げることには、私も賛成です。
デジタル技術を有効に活用できれば、人間がやる何千倍、何万倍の速度で処理できますし、人為的なミスを減らせることも間違いありません。
ですが、それよりも大事なのは、『そこで働く人々の幸せ』ではないでしょうか。
冒頭で取り上げた元先輩の言葉は、現場で働く人々が暗に感じている、『人々の幸せが置き去りにされている』という思いがにじみ出たものなのではないでしょうか。
DXによる変革は、人々を幸せにできるのか。
今回の出来事で、そういったことを考えさせられました。
それでは、まだまだ視野が狭すぎると思い知らされた、山本慎一郎でした。